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あなたはどうやって大人になりましたか?

ご無沙汰しています。玉心です。


最近は、引きこもりや不登校問題について勉強しており、すごく考えさせられます。

この問題は、若者自身に原因がある「若者問題」ではなく、社会が生み出した「社会問題」なのだということ。

近代以前は、生物学的な「生みの親」のほかに、

拾い親、名付け親、はかま親・・・

と、血はつながっていなくても、たくさんの親が子どもの周りにいたそうです。

昔は、乳幼児の死亡率が高く、生みの親だけでなくみんなで、子どもの死を受けとめ、悲しみを共有しようという思いがこのような文化として受け継がれてきたのではないかと言われています。

そして、こどもが大きくなると、

子供組 → 若者組 → 旦那衆といったコミュニティに参加させられます。

コミュニティに属することで、社会とのつながり、かかわり方を強制的に学び、それが、成人儀礼へとつながっていたわけです。


昔の、大人への成長過程が、当時の子ども達にとってhappyだったかどうかはわからない。

けれども、こうすれば、「大人になる」というシステムが確立されていました。

ただ、これは、武士の子は武士へ、農民の子は農民へ、というように、どんな大人になるのか生まれたときから決まっていたからできたことなのです。


現代では、親は生みの親だけです。

祖父母といった親族はいるかもしれませんが、他人である親はいません。

それは、「家族の孤立化」を招き、生みの親だけに責任を求めるような構図になってしまいます。

みんなで見守るといったことがなくなってしまっているのです。

そして、どんな大人になるのか、なりたいのか、すべて自己責任として20歳を迎えてしまいます。

節目節目のコミュニティがないのです。

あったとすれば、学歴があれば、大企業に入れば、安定した生活を送れるといったことでしょうか。

企業福祉国家が崩れ去り、「大人」の基準はますます不透明になってしまったような気がします。


勉強を通して感じたのは、鎮西道場に通った数年間は私にとっての、昔で言う、節目となるコミュニティだったのではといううこと。

禅道場では、食事のいただき方から、お辞儀の仕方、そして譲り合いの精神を学びます。

歩き方ひとつでも指摘されます。

・・・まあ、モチロン、カチンとくることもありましたし、噛み付いたこともありますが(笑)

それを受け止めてくれたのが禅道場というコミュニティだったのでは・・・と思ったのです。

まだ鍛えが足りないと言われそうですが、社会人らしい振る舞いができるようになりました。

くぅうぅ~と悔しいことがあっても、一呼吸、坐禅・立禅で乗り越えられることも増えました。


今の若い人は、怒られたくない、嫌われたくないといった感情を優先して受身がちです。

それは、若い人達だけのせいだけでなく、怒りっぱなし、気持ちを受け止めない大人が実際にいるからだと思うのです。

大丈夫だという信頼や安心がないと、彼らはその人から何かを学ぼうという気になれないのではと感じます。


禅道場は、そうした根拠のない、感情や行動を厳禁としているというか、決して出さないです。

仕事をしながら、禅修業を数十年もしているベテラン先輩ばかりなので、それは徹底しています。

こういう節目節目のコミュニティが増えたらいいなと思います。











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「座りながら、座っていることを楽しんでください。」

 ティク・ナット・ハンの言葉「抱擁」より 


個室でも、木の下でも、座布団でも

仏陀のように座ってみてください!

座りながら、座っていることを楽しんでください。

座ることの楽しみを知っている人には坐禅はつらい修行ではありません。

じっと座って、何もしないでください。

ただ、そこに座っていてください。

そして、それを楽しんでください。

ここにこそある人生の質を高めてくれることでしょう。

独りで座っていることは、

あなたが今、ここに現存しているということです。

友達と共に座っている場合も同じです。



・・・座っていることは、まさに今、

この瞬間に在るということです。

それは、人生という奇跡の真ん中で、

まともに生きていることを意味します。



坐禅で変わるもの

現在、東京で活動しています玉心です。

坐禅する機会が減ってきてまして、だんだん危機感を覚えています。

久しぶりに先日、鎮西坐禅道場に戻ってみて、新しく参加されている方の真剣さにビビリました。

真剣さ、一生懸命さを感じる姿は本当に素晴らしいと思いました。


坐禅で何が変わるの?

って思うこともありましたし、そうした質問をうけることもあります。



最近、確実に思うのは、「顔つき」が変わるということ。


間違いないです。

しまりがあるとか、きりっとしているとか、そういうことになるのかもしれませんが、

なんかこの言葉だとしっくりこない。

なんていうのでしょうか、


一生懸命のときの顔、笑っているときの顔、困ったときの顔、

全てに嘘がない感じといったらいいのでしょうか。

坐禅をしていると、体と心というくくりもなくなって、全てが統一されたような感覚になります。

だから、顔に出ている表情も、体と心と同様に統一されちゃったかんじなのでしょうか。

わかりにくい表現であればごめんなさい。


たとえていうなら、子どもの表情でしょうか。

喜怒哀楽全ての感情が、自然に現れますよね。

たまに、おませな子がいて、あなどれない表情を見せるときもありますが。

そんな感じです。


だから、私は坐禅に来られている方たちに安心感を覚えるのかもしれません。



禅では「三昧」って言葉がよく使われます。

私流の解釈でいうと、「一心不乱に集中」みたいな感じです。

とにかく、「いま、ここでしていることだけに集中!!!!」

いつも気を張っているようなイメージをされるかもしれませんが、決してそうではありません。


遊んでいるとき、休憩しているとき、働いているとき、食べているとき、

全てに三昧になってきます。

だから体で感じていることは心で感じていることになり

それら2つが感じていることが表情にも表れてくるのだと思います。


あー、坐禅しなきゃ。







「何もしないで、そのまま座っていてください」

 

   ティク・ナット・ハンの言葉「抱擁」より


「私たちは、時々こう言います。

『そうやってぽかんと座っていないで、何かしなさい!』

 しかし、この文章の意味を逆さまにしてごらんなさい。

『何もしないで!そのまま座っていなさい。

 ただ存在していなさい!』



・・・私たちはこのようにして、

存在の新しい次元を作れるのです。そうすれば

平和と兄弟愛、理解と思いやりは可能になるのです。」

お知らせ2

またまた、玉心です。

今回もお知らせです。
最近、札幌にあります石狩道場が主催している静坐会に行ってきました。
それがきっかけで、石狩道場のブログに書き込みをさせていただくことになりました。
私の北海道生活も終盤ですので、残りわずか、できるだけ書きたいと思っとります。
是非是非見てくださいね~。

写真は、さっぽろ雪まつりの様子です。

http://ningenzen.jugem.jp/


石狩道場のHP
http://www4.plala.or.jp/ishikaridojo/


雪まつり1

ゆきまつり2


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